氷見冤罪事件国賠訴訟
2009年 09月 11日
じつのところ、この間、ブログネタは沢山あった。しかし、先に述べたように、面倒臭さが先に立って、もう閉鎖しようかと思っていたくらいだから、更新する気力もないまま打ち過ぎていたというのが正直なところである。
気を取り直して(!?)、いささか自分も関わった本のことなので紹介しておこうと思う。本というのは左の写真である。『「ごめん」で済むなら警察はいらないー冤罪の真犯人は誰なのか?』(柳原浩・編 桂書房・刊 1300円+税)である。
もう少し詳しい内容は、氷見国賠訴訟を支える会のHPからダウンロードして見ることもできる。
氷見冤罪事件そのものはいまさら説明するまでもないと思うし、ここでも1,2度取り上げたこともあるので説明は省く。
柳原浩氏は、明らかに警察・検察が無理やりでっち上げた「権力の犯罪」の被害者であるから、それによって蒙った有形無形の損害を国家賠償請求することになったのであるが、日弁連も全面的にバックアップすることになって147名という大弁護団が結成されて訴訟に臨むことになったのである。
8月19日が第一回弁論期日なので、それまでに何とか本を出版しようということになり、地元富山の桂書房が発行を引き受けるといいうことから、私も少しお手伝いすることになったのである。(といっても、最近は原稿のやり取りは全てネットでやるので、たいしたことをしたわけではない。)
また、原稿は、柳原氏の書いたもの、ジャーナリストの鎌田慧氏によるロングインタビューの他、同志社大学教授(メディア論)の浅野健一氏、奥村主任弁護人や国賠ネットの支援者などに加えて、地元支援者も何人か書いている。事件の経過年表や訴状の全文などの資料も巻末に載せた。
私も「権力犯罪を生む富山の心的風土」と題して以下の短文を寄せた。
権力犯罪を生む富山の心的風土
美谷克己
詳しくは(首尾よくことが運べば、だが)国賠訴訟においてその経緯が明かされることになるだろうが、警察・検察の立場に立ってみれば、氷見冤罪事件は避けようと思えば避けられた事件であったように思われる。しかし、捜査当局はなぜか踏みとどまることはせずに突っ走ってしまった。
ひとり暮らしであった柳原さん宅の電話の通話記録によって、氏が犯行時刻に自宅で電話をしていたという蓋然性が極めて高いという有力なアリバイがある。物証であるパスケットシューズのサイズが柳原さんの足と極端に違う。また、柳原さんが氷見署に逮捕拘留されていた最中にも管内および近隣で同一犯と思われる全く同じ犯行様態の事件が発生している。
あるいは、この種の事件では当然行っているはずのDNA鑑定によっても柳原さんが犯人でないことは分かったはずだ。(もっとも、警察はDNA鑑定については、なぜか行なったことを今に至るも明らかにしてはいない)。そのような、柳原さんの犯行とするには大きな疑問があるにもかかわらず、警察は暴走した。
マスコミは今も「誤認逮捕」という表現を使い続けている。当初はともかく、途中からは、警察は多分「シロ」としりつつ、あるいは、少なくとも、「シロ」なのではないかと疑いながらも、押し切った。取り調べ官が筋書きを作りそれに合うように自白を創作し柳原さんに強制した。従って「誤認逮捕」ではなく「確信犯的証拠の捏造」であり「でっち上げ捜査」というべきである。すなわち、警察権力が犯した犯罪である。しかも、普通では考えられないような「大胆不敵な犯行」である。
こういうことがどうして起きるのか? 自白に至る心理プロセスの検証は私の任ではないが、当地の県民性とでもいうようなことで、常々感じていることがあるのでそれを書いてみる。
私の観察によれば、富山県人の行動原理には3つの際だった特徴が見出される。すなわち、
1.事大主義(寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ)
2.功利主義(損か得かを最優先)
3.形式主義・権威主義(見かけ見せかけが大事)
富山県における社会や政治にまつわる事象のほとんどはこの観点から分析することができると私は考えている。
上のようなメンタリティーからは、庶民(被統治者)には過剰な体制順応意識が生み出されるだろうと推測することはたやすい。
親や祖父母が子どもに言い聞かせる言葉に、「カタイもんになっとろ!」というのがある。
「カタイもん」とは「いい子」という意味であるが、単純にものごとの良し悪しをいうのでなく、目上のもののいうことに従順であれ、ということである。この教訓はいまも現役である。子どもだけでなく、むしろ大人たちに対してこそ、潜在意識も含めてしっかりと機能している。目上のものの言うことに従順に従っていれば利益にもなるし、世間体もいい。
そのことは反射的に、役人(権力者)がわにおいて愚民視とパターナリズム(父権主義)を生むであろうことも見やすい。上の三原理が貫徹している社会は支配する側にとっては非常に都合がいい、支配しやすい社会である。(この原理の淵源をどこに求めるかについては、加賀藩の統治政策や近世の浄土真宗の影響力など、手がかりは多くあると思うが、これも私の手に余ることなので深入りすることは避ける。)
強権的な統治者ときわめて従順な被統治者。目上の人間から、白いものを黒いと言われれば、さほど抵抗なく「はい、黒うございます」という回路に嵌っていく素地は既にあるのである。
一般的に(特に外部と遮断された異常な肉体的心理的状況に追い込まれた時などには)「自白の心理学」ともいうべき心的機制はもちろん存在するだろうが、特殊富山県的に、上のような機微もまた存在するだろうというのが私の考えである。
そういう心的風土に加えて、警察情報は絶対外部に漏れることはないという、情報コントロールに対する絶大な自信があるから、「大胆な犯行」はだんだんエスカレートすることになる。
そういう点から言えば、富山県にはもっと多くの自白強要による冤罪事件が存在するのではないかと疑う必要がある。
気を取り直して(!?)、いささか自分も関わった本のことなので紹介しておこうと思う。本というのは左の写真である。『「ごめん」で済むなら警察はいらないー冤罪の真犯人は誰なのか?』(柳原浩・編 桂書房・刊 1300円+税)である。
もう少し詳しい内容は、氷見国賠訴訟を支える会のHPからダウンロードして見ることもできる。
氷見冤罪事件そのものはいまさら説明するまでもないと思うし、ここでも1,2度取り上げたこともあるので説明は省く。
柳原浩氏は、明らかに警察・検察が無理やりでっち上げた「権力の犯罪」の被害者であるから、それによって蒙った有形無形の損害を国家賠償請求することになったのであるが、日弁連も全面的にバックアップすることになって147名という大弁護団が結成されて訴訟に臨むことになったのである。
8月19日が第一回弁論期日なので、それまでに何とか本を出版しようということになり、地元富山の桂書房が発行を引き受けるといいうことから、私も少しお手伝いすることになったのである。(といっても、最近は原稿のやり取りは全てネットでやるので、たいしたことをしたわけではない。)
また、原稿は、柳原氏の書いたもの、ジャーナリストの鎌田慧氏によるロングインタビューの他、同志社大学教授(メディア論)の浅野健一氏、奥村主任弁護人や国賠ネットの支援者などに加えて、地元支援者も何人か書いている。事件の経過年表や訴状の全文などの資料も巻末に載せた。
私も「権力犯罪を生む富山の心的風土」と題して以下の短文を寄せた。
権力犯罪を生む富山の心的風土
美谷克己
詳しくは(首尾よくことが運べば、だが)国賠訴訟においてその経緯が明かされることになるだろうが、警察・検察の立場に立ってみれば、氷見冤罪事件は避けようと思えば避けられた事件であったように思われる。しかし、捜査当局はなぜか踏みとどまることはせずに突っ走ってしまった。
ひとり暮らしであった柳原さん宅の電話の通話記録によって、氏が犯行時刻に自宅で電話をしていたという蓋然性が極めて高いという有力なアリバイがある。物証であるパスケットシューズのサイズが柳原さんの足と極端に違う。また、柳原さんが氷見署に逮捕拘留されていた最中にも管内および近隣で同一犯と思われる全く同じ犯行様態の事件が発生している。
あるいは、この種の事件では当然行っているはずのDNA鑑定によっても柳原さんが犯人でないことは分かったはずだ。(もっとも、警察はDNA鑑定については、なぜか行なったことを今に至るも明らかにしてはいない)。そのような、柳原さんの犯行とするには大きな疑問があるにもかかわらず、警察は暴走した。
マスコミは今も「誤認逮捕」という表現を使い続けている。当初はともかく、途中からは、警察は多分「シロ」としりつつ、あるいは、少なくとも、「シロ」なのではないかと疑いながらも、押し切った。取り調べ官が筋書きを作りそれに合うように自白を創作し柳原さんに強制した。従って「誤認逮捕」ではなく「確信犯的証拠の捏造」であり「でっち上げ捜査」というべきである。すなわち、警察権力が犯した犯罪である。しかも、普通では考えられないような「大胆不敵な犯行」である。
こういうことがどうして起きるのか? 自白に至る心理プロセスの検証は私の任ではないが、当地の県民性とでもいうようなことで、常々感じていることがあるのでそれを書いてみる。
私の観察によれば、富山県人の行動原理には3つの際だった特徴が見出される。すなわち、
1.事大主義(寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ)
2.功利主義(損か得かを最優先)
3.形式主義・権威主義(見かけ見せかけが大事)
富山県における社会や政治にまつわる事象のほとんどはこの観点から分析することができると私は考えている。
上のようなメンタリティーからは、庶民(被統治者)には過剰な体制順応意識が生み出されるだろうと推測することはたやすい。
親や祖父母が子どもに言い聞かせる言葉に、「カタイもんになっとろ!」というのがある。
「カタイもん」とは「いい子」という意味であるが、単純にものごとの良し悪しをいうのでなく、目上のもののいうことに従順であれ、ということである。この教訓はいまも現役である。子どもだけでなく、むしろ大人たちに対してこそ、潜在意識も含めてしっかりと機能している。目上のものの言うことに従順に従っていれば利益にもなるし、世間体もいい。
そのことは反射的に、役人(権力者)がわにおいて愚民視とパターナリズム(父権主義)を生むであろうことも見やすい。上の三原理が貫徹している社会は支配する側にとっては非常に都合がいい、支配しやすい社会である。(この原理の淵源をどこに求めるかについては、加賀藩の統治政策や近世の浄土真宗の影響力など、手がかりは多くあると思うが、これも私の手に余ることなので深入りすることは避ける。)
強権的な統治者ときわめて従順な被統治者。目上の人間から、白いものを黒いと言われれば、さほど抵抗なく「はい、黒うございます」という回路に嵌っていく素地は既にあるのである。
一般的に(特に外部と遮断された異常な肉体的心理的状況に追い込まれた時などには)「自白の心理学」ともいうべき心的機制はもちろん存在するだろうが、特殊富山県的に、上のような機微もまた存在するだろうというのが私の考えである。
そういう心的風土に加えて、警察情報は絶対外部に漏れることはないという、情報コントロールに対する絶大な自信があるから、「大胆な犯行」はだんだんエスカレートすることになる。
そういう点から言えば、富山県にはもっと多くの自白強要による冤罪事件が存在するのではないかと疑う必要がある。
by sumiyakist
| 2009-09-11 20:36
| 裁判批判