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それでもボクはやってない

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 どういうわけか、映画だけについてブログを作っているのとか、映画の話題をよく取り上げるのとか、親類縁者には映画好きが多いのであるが、私はさほど映画が好きではない。       
 TVでタダで観られるなら、往年の話題作とか、あるいはよほど暇なときになら、寅さん映画のようなのでも観るという程度である。
 映画館では年に2〜3本も観るか観ないかというその私が、2月1日に(たまたま上映中の京都で時間があったからなのだが)「不都合な真実」を観て、ひと月経つか経たないかのうちに、また映画館に足を運ぶということは考えられないほど稀なことである。

 今日、友人夫妻と周防正行監督の「それでもボクはやってない」を観てきた。周防監督のインタヴューなどを雑誌で読んだりして、この作品は是非観ようと思っていたのである。
 私は、不当だろうと正当だろうと逮捕された経験もないし、原告になりこそすれ被告になったことなどない。まして冤罪をこうむったことなどないのであるが、日本の司法制度にはとてつもない欠陥があることはことあるごとに感じていた。
 たまたま川崎磯信氏の「ヤミ米裁判」などでかかわりが出来たり、オンブズ運動で行政訴訟にも関与することになったりして、建前の立派さとは違って、警察のいかがわしさは勿論のことであるが、裁判制度や裁判官という職業にも大いに疑問を抱くようになった。
 つい先日も富山県で、強姦などの罪で懲役3年の判決を受けて服役を終えた男性が「無実」だったことが判明したり、鹿児島県では警察の強引な捜査によって、でっち上げともいうべき選挙違反事件が作り上げられていたことが明るみに出たりしている。
 犯罪を作り上げる警察の手法もさることながら(それをすこしでも防ぐために取り調べの可視化が必要なのは当然である)、社会的エリートである司法官(検事・裁判官)の資質が、本来のあり方や社会の要請とどこかズレていることが問題だろう。
 周防監督のこの映画は、司法そのもの頽廃を事象的に取り上げており、そして、監督の視点の確かさや日本の裁判のいかがわしさはこの映画の示すとおりだと思う。しかし、その根になにがあるのかまでは描いてはいない。

 私は、「日本の裁判は腐っている」(中村修二=青色発光ダイオードの発明者)のは、近代日本が社会的エリートの選別・養成・処遇に失敗したひとつの実例だと思う。
 社会的エリートといえば、法曹の他には医者とキャリア官僚が上げられる。(学者や政治家は、衆目の認める難易度の高い資格試験を経ていないので、世間はその仲間には入れない。)これらのエリートの選別・養成・処遇は、その職業が要請するような高い規範意識なり倫理観を植え付けるようには行われてこなかった。
 簡単にいえば単なる受験秀才、世間の人間よりちょっと頭がいい(記憶力と計算力に優れている)だけで選別され、なんとなくアタマがいい人間ならそう進むべきだという「通念」に導かれるままに知らず知らずに(引き返すわけにもいかず、ましてドロップアウトも出来ず)、気がつけば裁判官や医者・キャリア官僚になっていた、というのが99.9パーセント(日本の裁判の有罪率)であろう。
 身を捨ててでもひとつの命を救いたくて医者になったとか、冤罪に泣く被告を救いたくて裁判官になったとか、世の中の人を幸せにしたくて高級官僚になったとかいう人は多分、0.1パーセント(99.9パーセントの逆に)と言っていいのではないだろうか。つまり、近代日本のエリートの1000人に999人は、人のためではなく我が身可愛さからエリートになったというべきだろう。

 もちろん、きっかけはちょっとアタマのいい人間の利己意識だったかもしれないが、そのコースに乗って進んでいるうちに「ノブレス・オブリージュ」に目覚めて、まっとうなエリートになった人間もいないではないだろう。しかし、身の回りを見回してみれば分かるだろうが、多くの社会的エリートに高い倫理意識や規範意識を求めるのは筋違いというものだ。

 周防監督には次回作で、この近代日本のエリート作りの失敗を取り上げて貰いたいものだ。
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by sumiyakist | 2007-03-02 22:09 | 知事退職金