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広域圏行政という官僚独裁制

 平成の大合併で基礎自治体(市町村)の数が3200余りから1800ほどに、半減といっていいほどに減ってしまった。富山県でも、それまでの35市町村というのは決して多い部類でなかったと思うが、「お上」に従順なのが取り柄の県民性からか、つぎつぎと合併して半分以下に減り、現在は15市町村。全国で最も少ない県になった。

 いまは主題でないから合併問題に深入りしないが、それ以前にもじつは、「広域行政」という形で自治体の枠を越えて自治体が連携する仕組みはあった。
 廃棄物処理事業や介護保険の保険者としてなど、「一部事務組合」という機関を作っていくつかの自治体が参加して共同で事業を行うというものである。職員や特別職の退職金を支給するための共済機関的なものもあるが、事業を行う場合は「○○広域圏事務組合」という名の「自治体」を組織する。
 
 高岡地区広域圏の組織。
 執行機関は理事会(幹事会)であるが、実際は構成自治体から出向してきた職員が集まった事務局が日常的な業務を行う。経費は各自治体の拠出によってまかなわれる。形式上は「自治体」であるから、議会もあって議員がいる。これも構成自治体の議会議員が宛て職として選出される。年に2〜3回程度の「議会」が開かれるが、普通の議会に輪をかけて形式的であり、おざなりである。
 住民に至っては「○○広域圏」という自治体の住民であるという意識などまったくないから、結局、「広域圏」というのは「住民なき自治体」といっていい。だから、住民に責任を負っているわけでもないし、住民の意見を反映する機構があるわけでもない。(住民のそれぞれが所属する自治体の議会を通じて広域圏議会の議員に住民意志を反映するというのが形式論だろうが、実際上は、そうした2段抽出のような代議制が機能することは全くない。)

 というわけで、広域圏行政というのは一種の事務官僚独裁システムと同じことになる。
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by sumiyakist | 2009-01-26 21:29 | 地方自治

ゴミ行政の転換

 しばらくゴミ処理問題を取り上げてゆこうと思う。
 わが町・小矢部市では十数年も前のこと、焼却処分場が老朽化したので新たに建設する計画があった。「ノット・イン・マイ・バックヤード」の抵抗もあったろうに、新たな立地も決定していた。そこにいたるまでの経緯は、私の知るところではない。ともかく、人口3万5千人程度の市であるから、日量30トンか35トン程度の焼却炉を建設する予定であった。
 しかし、それが急転直下、計画取りやめになり、高岡地区広域圏として大型の施設を建設してそれに加わるということになったのである。そのことを理解するためには少し回り道をして、わが国の、とりわけダイオキシンという物質に対する認識(=対応)の変化を辿らねばならない。

 当時からすでに環境保護派(私もその一員のつもりであった)は、日本の廃棄物処理が焼却一辺倒であること、その結果、環境中に排出され蓄積されたダイオキシンが世界水準でも頭抜けた状況であることなどをあげて焼却主義から転換すべきことを主張していた。
 国際的な環境保護団体であるグリンピースが、特にわが国の焼却主義を取り上げて批判する行動を行っていた時代でもある。県内の新湊港へも髑髏マーク(DYOXINのXが海賊船の髑髏マークにまねてあった)の旗を掲げた「虹の戦士号」が入港してキャンペーンを行っていたこともある。
 有吉佐和子の『複合汚染』もレイチェル・カーソンの『沈黙の春』ももちろん読まれてはいたが、世間は(まして行政は)、いまだにゴミは燃やして埋めるものだと漫然と考えていた状況であった。

 そういう世間の状況が劇的に変化したのは、私の印象では二つ出来事による。ひとつは、保守派の拠点ともいうべき神社庁が傘下の神社に対して、正月の注連飾りなどを燃やすこと(どんど、左義長)を止めるように通達を出したこと。いまひとつはテレビ朝日の「ニュースステーション」で、いわゆる「所沢ほうれん草」が取り上げられたこと(1999年2月1日)、である。

 神社庁というのは、いわば草の根保守主義の本拠地と言うべき存在であり、政治的には当然右翼的な立場をとってきた。したがって、環境派がどちらかといえば政治的には左翼的色彩が強いのに対して、神社庁は環境問題にかんしても「保守的」な立場であると思われてきた。それが、一転して「脱焼却」を主張し始めることになったのは、いわゆる環境ホルモンの影響によって、生物界全体にわたってオスのメス化や受胎不全の現象が起きているという多くの生物学者の研究結果を深刻に受け止めたからであろうと、私はにらんでいる。つまり、ダイオキシンなど環境ホルモンの影響による「民族の危機」を感じたのであろう。この神社庁の転換は唐突であったが、それだけに保守的(環境問題にも政治的にも)な勢力には大きな影響を与えたように思う。

 また、ニュースステーションでの「所沢(ダイオキシン汚染)ほうれん草」報道も、所沢市周辺に集まっている産廃焼却場から排出されるダイオキシンの問題を取り上げるのに、茶の木の葉とほうれん草とを混同するといった分析手法に問題があって、後には農業関係者との訴訟にまでなりテレビ朝日側が全面的に詫びを入れることになるのであるが、ダイオキシンが庶民の生活環境に溢れていることに対する警告としては、大きなショックを与えた。

 この二つの出来事を契機として、わが国のダイオキシンに対する、すなわちゴミ焼却主義に対する世論が急激に変化した。(「羮に懲りて膾を吹く」たぐいの行き過ぎた現象が現れることもあるが、それもまたいつものことである。)

 こういう社会状況を受けて、廃棄物行政も急変した。地方自治体のゴミ処理に対する指導監督は厚生省(当時)の管轄なのであるが、ダイオキシン対策が最優先されることになり、運転中の焼却炉のダイオキシン排出基準が厳しくなり、自治体はその対応に追われることになった。
 排出ガス中に含まれるダイオキシンを捕捉するためにバグフィルターを取り付けたり、活性炭を投入したり、あるいは焼却温度を上げて運転したりと、まさにてんやわんやの状態であった。
 ダイオキシンは比較的低温(300度前後)で燃えた時に発生しやすいとされるから、炉の温度を800度〜1000度に保てば問題ないとされ、したがって、点火・消火時にはどうしても低温になるから、24時間連続焼却するのが最善とされることになった。
 また、塩化ビニール(塩ビ)をはじめとするプラスチック類の焼却がとりわけダイオキシンの発生に結びつくとされ、プラスチック類の分別・リサイクルという社会的な気運を大きくしたことは、多くの人が知っているだろう。

 さて、こういうゴミ問題にかんする社会状況の変化、それを受けての廃棄物行政の方針転換によって、着手寸前になっていたわが小矢部市の焼却炉建設計画は頓挫することとなった。
 すなわち、新規の焼却炉建設は日量100トン以上、24時間連続燃焼、という厚生省の方針を受けて、富山県は県内のゴミ処分場を4つに集約する方針を出したからである。新川地区・富山地区・高岡地区・砺波地区の4カ所である。
 小矢部市は単独の施設建設計画を破棄して、高岡地区広域圏に加わることになったのである。
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by sumiyakist | 2009-01-25 11:01 | 地方自治

大きな問題

  いつまでも年賀状を掲げておくわけにもいかないので、更新せずばなるまい。

  もともとこのブログは、前富山県知事・中沖豊氏の「条例に基づかない不当な」退職金について、オンブズ運動としての取り組みを広く知らしめるために思いついたもの。「中沖退職金問題」がいちおう決着しても、オンブズ運動は続けているし、国や地方の政治状況(とりわけ憲法問題など)に対する対応なども続いているので、それらの問題を取り上げてきた。

 暮らしに関わる問題という点からいえば、自治体の情報公開や公共事業のコスト(談合)の問題なども取り上げてきたのであるが、その種の問題は、じつはさほどの難題ではない。談合を根絶しようと思えば、行政マンのうちのトップの数人と請負業者の経営者のせいぜい十数人が「止めよう」と腹をくくればいいだけの話である。

 本当に難しいのは、ゴミ処理問題とか、高齢者問題・少子化問題、あるいはーとりわけ地方都市の場合ー過疎化、農林業をどうするか、といった問題である。
 例えばゴミ処理問題ひとつ取り上げてみても、地方自治体の仕事の最重要な業務が住民の健康や安全をまもることであることは論をまたないし、その「基本のき」が保健衛生事業であることもまた、いうまでもない。その基本的な事業を遂行するための焼却処分場や最終処分場(埋め立て場)を建設しようとすると、抜き差しならない問題に直面せざるを得なくなることがある。
 それらの施設は、住民の誰にとっても必要な施設であり、建設そのものに反対する住民はいないはずである。しかし、実際にその計画が表面化すると、「総論賛成・各論反対」「ノット・イン・マイ・バックヤード(うちはお断り)」が必ず出てくる。
 それに加えて、焼却とか埋め立て、あるいは分別・リサイクル、といった問題が、常に新しい局面に直面するということもある。ここ10年前ほどは、ダイオキシン問題で焼却万能主義が改められ、それに資源(枯渇)問題も加わって、ゴミの資源化=リサイクル(分別収集)が大きく進められることになった。

 こういうことを考えると、ゴミ処理問題というのは、住民全体の意識の啓発や全体利害と個別利害の調整という、談合を止めさせるといった問題などと比べて、桁違いに深く大きな問題であることが分かる。
 
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by sumiyakist | 2009-01-23 21:34 | 地方自治

9条世界会議のDVD上映会

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 おそまきながら、「けんぽう小矢部」の年賀状をアップ。
 というのも、これも遅まきながら、昨年の「9条世界会議」の公式DVDを見ての座談会が明日17日(土)の午後にあるのを知らせたいと思ったから。
 会場は石動コミュニティセンター。地図

 ちなみにこの年賀状、時節柄ありきたりのチラシよりもと、ひと工夫してみた。原画は会員の手になるもの。
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by sumiyakist | 2009-01-16 21:04 | 憲法・教育基本法

ジョージ・W・ブッシュ・・・・世界の災禍

 アメリカ合衆国大統領を退くジョージ・W・ブッシュの最後の記者会見があったそうだ。そのことを伝える朝日新聞の記事である。
 「史上最悪の大統領」といわれる男の馬鹿面を見せらるのはうんざりだ。何枚かあるであろう写真からあえてこのショットを選んで紙面に載せたのは、朝日としての辛うじての「批評精神」か。
 アフガニスタンやイラクで百万人以上の人びとを殺し、退任の間際になっても、いままたガザでの殺戮に同意を与えてあっけらかんとしている、現代世界の最高権力者の顔である。
 この、運命のいたずらによって権力を得た、そして、余り知的に優れたといえない男のために失われていった沢山の無辜の命のことを思えば、ただただ怒りの波が心の中に繰り返し押し寄せてくる。
 幾百万の死者たちよ、この暗愚の帝王がテキサスの牧場でのんびりと余生を過ごすのを許すのか?
 そして、われわれも。

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by sumiyakist | 2009-01-15 08:52 | マスメディア

生かさぬよう殺さぬよう

 今年の通信の巻頭言を読み直していて、一昨年(07年)のそれのことを思い出した。あれから2年経った年末年始の「派遣村」の報道を見ていて、現状がその延長線上にぴったり来ているのは驚くほどだ。その巻頭言を再掲する。
                    *
 <巻頭言> 生かさぬよう殺さぬよう
 小泉純一郎氏自身、スタート時は半年も保つかどうか半信半疑でもあっただろう政権が、アメリカの後押しとマスコミの全面的な援護を得て高支持率のまま五年余りも続いた。その遺産が半分、あと半分は金正日将軍様の「おかげ」で、安倍晋三や中川昭一という極右政治家といったほうがいいような人物が政治の中心軸に位置することとなった。コイズミ以前には想像もできなかった構図だ。

 経済分野では、アメリカから突きつけられた「年次改革要望書」を小泉(竹中)構造改革という名で実行することによって、ほとんどアメリカの51番目の州といっていいくらい、アメリカの経済システム=グローバリズムと地続きになりつつある。その結果、日本社会は国際金融資本の草刈り場の様相を呈している。ハゲタカファンドやら機関投資家やらグローバル企業やら、それを利用しそれに利用される国内の有象無象やら、まさに百鬼夜行、「国富消尽」(同名書=吉川元忠・関岡英之共著)のまっただ中である。

 かくして、文化的には右翼国粋主義の復活、政治・経済両面ではアメリカの属国化という、奇怪なアマルガム国家が成立しつつある。無能な二世三世政治家と狡猾な官僚、志操なき経済人・学者が国を滅ぼす図か。(民が残れば国など滅びてもいいんだが、そうはいかないから困る。)
 「ワーキングプア」が昨年の流行語になった。派遣労働・請負労働など非正規雇用の拡大と、その一方での裁量労働制、過労死に至るまでの労働強化が広がっている。追い打ちをかけるようにホワイトカラー・エグゼンプションと来た。かつての「モーレツ社員」の言葉が牧歌的に響くほどである。

 キャノンのトップであり日本経団連の会長でもある御手洗冨士夫氏は、自社工場での偽装請負の批判を受けると、「(偽装だという批判は)法律が間違っているからだ」と開き直る。呆れるほかない。

 金融法制、会社法制、労働法制と、剥き出しの凶暴な資本主義システムへの後退(進化?)は、いわゆる社会主義思想の衰退によることはまちがいない。なんだかんだ言っても「労働者の祖国」としての社会主義体制の存在(一国社会主義国家群)が資本主義国における労働者・市民の諸権利を下支えしていたことが証明されたと思うのであるが、そういう指摘は論壇では禁句ででもあるかのように、決してお目にかかることはない。死んだ子の歳を数えても仕方ないということか。

 ひろく近代の人権思想一般についても、現実的な力としてはルソーからマルクスに代表されるような社会思想を根底にしていたから、その現実が失われてしまえば、資本主義の悪に対抗する思想の物理力が失われる。労働者は「生かさぬよう殺さぬよう」の世界へ回帰したかのようだ。
 私の関心は「後・近代(ポストモダン)」にあるのだが、ここまで「前近代」的状況が露骨になると、まず「近代の奪回」を目指さねばならないのか。
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by sumiyakist | 2009-01-10 21:53 | 憲法・教育基本法

カジノ資本主義の次に来るもの

 このごろよく言うこと。「20年以上も炭焼きをやってきたが、これがやき物かなにかを焼いてきたのなら、いまごろはもう先生だけど、炭だからいつまでたってもただの炭焼き(笑)。」

 じっさい、炭焼きというショーバイがこんなに続くとは思わなかった。山で暮らし始めるにあたってたまたま遭遇したのが炭焼きという仕事。紹介してもらって出会った隣村の炭焼きさん「ムカイのおじじ」(=田畑のじいちゃん)は、その時ちょうど80歳。私が40歳を過ぎたところで、単純に「80のじいさんになっても出来る仕事ならあと40年間も出来るわけだ」と変に納得して弟子入りしたのである。はやその半分以上が過ぎた勘定になる。あと20年も同じように続けることが出来るかどうか、必ずしも自信はないが、けっこう性に合ったか、まだまだ当分やれそうである。(ちなみに、わが師「ムカイのおじじ」は90歳ころまで現役で炭を焼いていた。)

 実体経済といえばこれ以上実体的なものはない。自然物としての立木を自分で伐ってきて炭に焼く。炭を火鉢なりイロリなりに置いて火をつけると炭の燃焼によって熱エネルギーが放出される。それ以上でも以下でもない。私の場合、問屋だとか小売りだとかの流通経路もないから、直接の顧客との関係があるだけがある。「商品」のもっとも原初的な形態。自然が商品に形を変えるまさにその現場に立ち会う毎日ということになる。

 100年に一度の経済危機だとか、大恐慌の再来だとかいっているが、そもそも実体経済とかけ離れた金融工学=カジノ資本主義の失敗なのである。昔の(今もそうかもしれないが)博奕打ちは、賭場の勝負は賭場だけで完結させたものであろう。自分らの博奕の勝ち負けで堅気(かたぎ)の世界に迷惑をかけるなんぞは、博徒の風上におけないのではないか。

 実物経済だけが真実の経済であると極論をいうつもりはないが、アメリカが主導してきた「金融資本主義」「カジノ資本主義」が根底から自壊現象を起こしていることは誰しも認めざるをえない。

 かといって、資本主義に倫理を求めるのはオオカミに菜食主義を要求するようなものだ。本当に世の中に「倫理」を貫徹させようとするなら資本主義を廃絶するしかないのだろうが、ことは簡単ではない。資本主義というのは実際は「主義(イデオロギー)」ではなく、ヒトの自然性に根拠をおいているからである。それは仏教的な言葉を借りれば、「無明」から立ち上がってくる制度であるから、表層の社会システムのように簡単に替えるわけにはいかない。

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 以上が年賀状代わりの紙版の「スミヤキスト通信」に書いた巻頭言。
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by sumiyakist | 2009-01-03 17:40 | 自然と暮らし

新しい年

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c0068917_10565055.jpg  元旦は10センチほどの積雪であけた。
 いつもなら暮れから来て年越しをする大阪の上の娘一家が、4人目の子が生まれたばかりで移動は難しかろうと、来ないことになり、「大人の正月」となった。
 大阪のシェフPUSH-PULL氏は、昨年に続いて老犬の介護で家を離れられないとのことで不参加。息子と帰省した下の娘が参加して「おせち」づくりは(だいぶ手抜きをしたが)なんとかやり終え、玄関の花も活ける。(仕上がったあとで友人からカサブランカと金色のマツボックリを貰ったので追加)。
 雪は降り続き、昼には20センチを越す。
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by sumiyakist | 2009-01-01 12:06 | 自然と暮らし