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雪囲い

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 11月25日(月)になって、ようやく雪囲いに取りかかる。雪国で暮らすにあたってのまったく非生産的な出費と労力がこの雪囲い(取り外す時も同様の労力を要する)とスノータイヤである。雪が降れば降ったで、「雪かき」「雪よかし」「雪おろし」の労力が必要だ。雪国以外の人には全く理解できないだろう。
 上の写真が作業を始めたところ。まず軒下に支柱を立てるところから始める。正面(南側)である。家の前には先日降った初雪がまだ残っている。

c0068917_19451017.jpg 角度を変えてみるとこうなっている。支柱は杉の丸太。仕上がりに気を使う人は角材や磨き丸太のようなものを使うし、このごろではアルミ製の雪囲い資材もあるが、わが家はあり合わせの丸太や角材を使っている。

c0068917_1949201.jpg 向かって左(西側)も同じように支柱を立て、横に太い竹を渡して交点を縄でしっかり結ぶ。地面の黄色く見えるのはイチョウの葉。その向こうに椎茸のほだ木が見える。

c0068917_19541091.jpg その上にカヤ(ススキ)を編んだ「すがき」を当てる。これは入植してから地元の人に教わりながら編んだものである。その上を竹で押さえて挟むようにしておいて、60センチほど間隔で下の竹と縄で結ぶ。これで囲いが完成。屋根から落ちてきた雪が軒下に溜まっても押しとどめることができる。

 c0068917_2013491.jpg 支柱と竹、押さえの竹と裏の竹を結ぶにはワラ縄を使う。結び方は左の写真のようになる。最後に締まるような結び方で、「つの結び」という。角のように2本の端がピンと出るのでその名があるのだろう。もちろん、こちらへ来てから教わったのであるが、稲を掛けるハサを作るときなど、いろいろと用途の広い結び方である。


 表(南)側は、「すがき」が傷んでしまったので以来、無精をして、ヌキ板(幅7〜8センチ、厚さ1センチほどの板)を横木として支柱に渡して木ねじで止め、プラスチックの波板をあて、その上からまたヌキ板で押さえる(その固定にも木ねじを使う)という方法をとっている。

c0068917_8332239.jpg 朝から家人と二人で一日かかって前と横の2面を仕上げた。終わったときにはもう暗くなっていた。やれやれと気がゆるんだせいか写真を撮るのも忘れていた。明朝にでも撮ってアップすることにする。裏(北)側は、最も雪が多いのだが、壁にはトタンを貼り、窓には外から格子をあてがって通年仕様にしてあるし、東は妻側なので雪対策はしなくていい。
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by sumiyakist | 2007-11-26 20:44 | 自然と暮らし

関組長講演会

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 11月18日(日)午後、市民オンブズ富山の年次総会があり、そのあと、国会ロビイスト=関組長こと、関義友氏を迎えて記念講演会を開いた。会員外の参加者も含めて四十名ほどと、やや寂しい聴衆であったが、関氏は長勢甚遠・元法務大臣のカネと女とNPOについて、あるいは国会ロビイストという耳慣れない活動の紹介に熱弁をふるった。

c0068917_20304759.jpg 元法相については、週刊誌の記事よりさらに踏み込んで自分が足で調べた情報なども話には出たが、関氏自身、政治家と女の問題に寛容というか、それ自体を目くじら立てて非難するという人物ではないから、女性問題そのものよりも、NPO法人をその設立の目的とかけ離れた趣旨で、自分らのインナーサークルのように利用し、そのたまり場として(愛人の経営する)クラブを使ってそこに年間600万円もの家賃を払うというのはNPO(特定非営利活動法人)の精神、市民活動の原則に全く反するとして、長勢氏を批判していた。(週刊誌によれば、表向きはこのNPO「悠遊興論塾」は長勢氏は名誉塾頭だそうで、氏と関係の深い友人や先輩後輩たちが代表や理事などになっているという。)
 会場との質疑応答も熱が入り、関氏の持論である納税者ネットワークの構想についても訴えていた。関組長が話をするのは、富山県内では今回が3度目の機会である。私は2度半(「半」というのは、交流会だけ参加というのもあったから)参加しているが、今回が一番まとまった話が聞けたのではないかとおもう。
 政治家(の卵)でも、その秘書でもなく、ジャーナリストでも、企業や業界の代理人でもなく、いわば「市民派」の専属ロビイストという、経済的にも社会的にも存立しがたい立場をどこまで持続することができるのか、前人未踏の位置にいる人物ではある。その行動自体が冒険といえる。

c0068917_20313926.jpg 夜になって帰宅すると、わが久利須村はすでにうっすらと積雪、翌朝には5センチになった。平年より10日早い初雪だという。
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by sumiyakist | 2007-11-20 20:46 | 地方自治

ナラ枯れ・その後

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 時雨(しぐれ)というにはいささか激しい雷雨混じりの悪天候が続いたあと、11月13日、14日と、小春日の晴天が訪れる。山仕事が出来る日数は、もうあまりないだろう。山に置いた道具類もそろそろ撤収しなければならない。木々は日に日に色合いを変えてゆくが、例年に比べれば紅葉は遅れているようだ。
 夏には山の斜面の濃い緑の中で目立った ナラ枯れの木も、色とりどりの秋の山ではほとんど見分けがつかないほど埋没している。上の写真は同じマツオの尾根の最近の写真(11月14日)である。ナラは条件が良ければオレンジ色に黄葉するが、枯れたナラはいまでもずっと茶色の葉をつけている。来年の春にはもう新芽を出すことはないから、枯れ木であることが歴然とするはずだ。手前は刈り取った後のソバ畑。
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 もう少し低い側の様子。手前は我が家のタマネギとキャベツの苗。
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 いま、炭材を伐り出している山からもマツオの尾根を遠望することができる。中央の長い尾根がそれである。右下の隅に、玉切りした原木を一輪車で運んでいるうちに出来た小径が写っている。(この端まで運んで10メートルほど下の林道へ落とし、トラックに積んでカマへ運ぶ。)
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 ナラ枯れを気にしているせいか、ある程度太い(30〜40年生)ナラを切り倒すとナラ菌の繁殖と思われる年輪の黒い汚れのようなものが目につくことが多くなった。 ひどい場合には、数日たつとタールが沁みだしたような黒い帯が現れる場合がある。これがナラ菌と確認したわけではないが、以前にはなかった、ナラ枯れがいわれ出して目立つようになった最近の現象である。
 ナラ菌を持ち込むといわれているカシナガが潜入した結果と思われる木くず(フロス)もよく見かけるようになった。
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by sumiyakist | 2007-11-15 21:50 | 自然と暮らし

出合橋

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 上の写真は、われわれの住む久利須村から下ったところにある出合橋の景色である。正面にある木はケヤキである。さほど太いものではないのだが、例年、いまごろになるときれいに黄葉する。この場所は渓流が出合う谷底のようなところであり、久利須の集落はここから渓流沿に沿って1.5キロほど上がったところ(この写真でいうと後ろがわ)にある。町へ下りる時にはいつも真っ正面にこのケヤキが見えるので日に日に色を変えてゆく風景を見ることになる。

 久利須(村)がその一角であるところの(私は「宮島峡の奥座敷」と言っている)、小矢部市の宮島地区は、宮島温泉でも知られているが、「伝説と清流の里」をキャッチフレーズとする小観光地である。その一部はここでも紹介したことがある。
 じつは、その「伝説」なるものは、久利須がその淵源なのである。平安時代も末期のころ(西暦1177年)、時の平氏政権に対するクーデター計画ともいうべき「鹿が谷の変」という事件があったことを歴史の授業で教わったこと思い出していただけるだろうか。この時の首謀者の一人が俊寛僧都という人物である。
 ほぼ確かな史実としては俊寛ら3人の首謀者は鬼海が島へ流されたことになっているが、どういう歴史の力学が働いたのか、俊寛僧都については、じつは久利須村へ配流されていたという伝説がこの地にある。それも昨日今日になって生まれたそれではなくて、江戸時代にすでにそういう伝説があることが「越の下草」という書物に誌されている。
 いまはその詮索は措いて、出会い橋という名前の由来だけを記しておくと、その俊寛僧都を都に残した妻(僧に妻がいると公然と語るというのも解せないが、妻どころか娘もいるということになっている)訪ねて来て、二人が出会ったのが出合橋であるということになっている。
c0068917_23574987.jpg  左の写真は橋にはめ込まれている石のネームプレートである。僧と妻の「出会い」というより、湯道丸川と久利須川というふたつの渓流が落ち合う「出合」が多分本来のその名の由来だと思うが、この橋をはじめとして、俊寛僧都に関わる場所の名前が久利須とその周辺にはいくつかある。
 
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by sumiyakist | 2007-11-08 00:23 | 自然と暮らし

品川正治講演会

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 11月3日は「文化の日」ということになっているが、じつは戦前レジームでは「明治節」すなわち、明治天皇の誕生日であった。
 1946年(昭和21年)11月3日に「日本国憲法」が公布された。時の政府ないし国会がこの日を選んだ経緯はつまびらかでないが、わざわざ明治節に新憲法の公布をぶっつけるというのは、いろいろな思惑があったのだろう。(よく知られているように、この新しい日本国憲法は旧憲法たる帝国憲法の「改正案」として帝国議会に提出され成立したものである。)

 この日の日経新聞の1面コラム「春秋」では、新憲法を記念する祝日「憲法記念日」選定のいきさつについて触れている。それによると、衆議院が施行日の5月3日(昭和22年)を選んだのに対して、参議院議員である作家・山本有三氏は公布日であるこの11月3日を強く主張したという。結局GHQが介入して明治節を憲法記念日にするということにはならず、「文化の日」という名で祝日となったという。

 というわけで、憲法「公布」記念日ともいうべきこの日に、9条の会・富山などの主催で品川正治氏の講演会「これからの日本の座標軸〜財界人の直言」という講演会が開かれた。品川氏は元興亜損保社長・会長であり、また経済同友会の副代表幹事や専務理事も務められたという財界人である。財界といえば改憲派の見解ばかりがメディアなどで取り上げられがちであるなかで、憲法9条堅持を強く主張する硬骨の経済人として知られている人物である。

 1924年(大正13年)のお生まれだから83歳になられる。旧制三高を卒業するかせずかの頃に招集され訓練もなく(ただ死にに行くために)中国大陸の戦線に送られたご自身戦争体験から話を始められた。敗戦後の復員船の中でよれよれの新聞に載った新憲法案、とりわけ戦争放棄の条文を読んで涙が止まらなかったこと、国家が引き起こす戦争とそれに巻き込まれる国民という関係について根本的な反省(戦争は起こそうとする人間がいるから起こる。したがって、天災ではないから人間の力で止めることができる)をしたこと…。よどみなく話される言葉には体験と信念に裏打ちされた説得力がある。
 戦争を「人間の目」で見ること、それはまた、現在の経済界を席捲している市場原理主義についても同じことで、やはり「人間の目」で見るべきことを説かれる。

 そのほか、実に多くのことを整然かつ諄々とお話しされたが、演題である「これからの日本の座標軸」ということに引きつけて考えると、次のようなことが結語的中心軸だろうか。
 すなわち、昨今の政治家などがほとんど慣用句のように用いる、「日本とアメリカとが価値観を共有している」という言葉に対して徹底的に異を唱えて、戦争国家アメリカと戦争を放棄している日本とでは全く価値観が違うのだということをはっきりと認識すべきだし、そこからすべてを組み立て直すべきだ。そうすれば、アメリカを変えさせ世界を変えることが出来るのだと。
 これは、全く同感。
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by sumiyakist | 2007-11-04 10:19 | 憲法・教育基本法

スタンバイ

c0068917_20571255.jpg  ようやく炭材を全部立て終え、石と土とで焚き口を拵えて準備が完了。(左の写真。まだ煙突は立てていない)。ちょうど前のカマ焚きからひと月たっている。あまり速いペースではないが、相変わらず所用も多かったし天気のいい日は山仕事を優先してやっていたからやむを得ないな、と自分を納得させる。
 これで最低2日間続けてカマについていることが出来る日程が取れれば火を入れることができるわけであるが、社会福祉協議会のバザーの準備と実施だとか、憲法についての品川正治氏の講演会だと、あるいはオンブズ小矢部の例会とかの予定が入っているから、結局、来週の後半になってから口焚きと出した炭の箱詰めの作業をすることになるだろう。冬までにもうひとカマは焼かなければならない。
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by sumiyakist | 2007-11-01 21:07 | 自然と暮らし