2005年 10月 29日 ( 1 )

「選良」か「選悪」か

 地方分権論議がかまびすしかった頃、分権の「受け皿論」というのが盛んに言われたことがある。ことに、中央省庁の役人達が地方分権の困難さを言うときに主張したものである。「分権してやってもいいけど、その受け皿たる地方自治体の能力がね〜」と。つまり、自治体の首長・職員・議員の能力不足を指摘する論である。
 確かに、地方自治体の首長や議員については、「この連中に権限と財源を与えたら何をしでかすか分からない」という心配には一理ある。少なくとも「あった」と思う。というのも、ちょうどそのころ、あるいきさつから、富山県の片隅にある小矢部市の市議会議員を務めたことがあり、地方行政の内実をつぶさに観察する機会を得たことがあるからである。
 人口3万5千人ほどの地方都市なのであるが、当時の議員定数は20人、うち、共産党の議員がひとり、自民党所属が18人(選挙では公認でなく無所属で出るものもいるが全員党員である)、そして私(ただ1人の純粋無所属!)、という構成である。市長も、市を含む選挙区から選出される県議会議員(当時は二人)も、もちろん自民党員。いわば、旧「社会主義国」を裏返した感じといっていい保守王国中の保守王国である。(ディープ・サウスをもじっていえばディープ・トヤマ!)
 そういう連中(と言わせてもらおう)を見ていると、確かに「受け皿論」は説得力があった。すなわち、何をしでかすか分からないと心配する中央の役人の気持ちも分からないでもない。だがしかし、私はもう少し違った点も見ていた。中央の役人は、当然なのだが、そういう首長や議員、せいぜい幹部職員しか見ることができず、彼らを見て「この連中」と言っているのである。中央省庁の役人が一般住民を見る機会はまずない。
 さて、「選良」という言葉がある。狭義には代議士を指すのであるが、広く代議制の議員を指すということもできるだろう。現今の日本の代議制選挙はとても「良を選ぶ」とは言えないのは多くの人が感じていることだ。
 私は、短い地方議員の経験(と、その後オンブズ運動のそれなども含めて)からいうのだが、一般住民の中にこそ、優れた人材は多いのであって、現在の選挙制度は何故か、そういう「良」を選ばずに「最悪を選ぶ」制度になっている。これがわが国の地方政治(国政もあまり変わらないと思うが)のナゾであり、三流政治を続けている根源である。
 そしてじつは、この「受け皿論」的状況を嘆いてみせる中央省庁の役人自身が、むしろその地方の中央依存体質を積極的に作り出し強化していたのである。いうまでもなく、自分たちの権限を維持するためにである。先の行政有機体説を蕩々と論じていた自治官僚のこと思い出していただきたい。
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by sumiyakist | 2005-10-29 20:49 | 地方自治