出合橋

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 上の写真は、われわれの住む久利須村から下ったところにある出合橋の景色である。正面にある木はケヤキである。さほど太いものではないのだが、例年、いまごろになるときれいに黄葉する。この場所は渓流が出合う谷底のようなところであり、久利須の集落はここから渓流沿に沿って1.5キロほど上がったところ(この写真でいうと後ろがわ)にある。町へ下りる時にはいつも真っ正面にこのケヤキが見えるので日に日に色を変えてゆく風景を見ることになる。

 久利須(村)がその一角であるところの(私は「宮島峡の奥座敷」と言っている)、小矢部市の宮島地区は、宮島温泉でも知られているが、「伝説と清流の里」をキャッチフレーズとする小観光地である。その一部はここでも紹介したことがある。
 じつは、その「伝説」なるものは、久利須がその淵源なのである。平安時代も末期のころ(西暦1177年)、時の平氏政権に対するクーデター計画ともいうべき「鹿が谷の変」という事件があったことを歴史の授業で教わったこと思い出していただけるだろうか。この時の首謀者の一人が俊寛僧都という人物である。
 ほぼ確かな史実としては俊寛ら3人の首謀者は鬼海が島へ流されたことになっているが、どういう歴史の力学が働いたのか、俊寛僧都については、じつは久利須村へ配流されていたという伝説がこの地にある。それも昨日今日になって生まれたそれではなくて、江戸時代にすでにそういう伝説があることが「越の下草」という書物に誌されている。
 いまはその詮索は措いて、出会い橋という名前の由来だけを記しておくと、その俊寛僧都を都に残した妻(僧に妻がいると公然と語るというのも解せないが、妻どころか娘もいるということになっている)訪ねて来て、二人が出会ったのが出合橋であるということになっている。
c0068917_23574987.jpg  左の写真は橋にはめ込まれている石のネームプレートである。僧と妻の「出会い」というより、湯道丸川と久利須川というふたつの渓流が落ち合う「出合」が多分本来のその名の由来だと思うが、この橋をはじめとして、俊寛僧都に関わる場所の名前が久利須とその周辺にはいくつかある。
 
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by sumiyakist | 2007-11-08 00:23 | 自然と暮らし


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